6丁目の夕日
だいちゃんかぞえうたソノシート 岩城屋昭和レトロコーナー展示
連休も終わりましたね。
でも、まあ世間のGWも商売人の子供には、なんの関係もありません。
私も、駅前商店街の子供だったので連休といっても、親にどこかに連れて行ってもらった事もなく、またそれが当り前のように育った。
うちは駅前の通りと国道が交差する交差点の角の信号機の下で金物屋と毛糸屋をやっていた。
今ほど車の交通量はなかっただろうが、商店街もかなり活気があったように思う。
うちの斜め前の交差点の角は、産交バスのターミナルでバスガイドさんの寮もあった。
母はとにかく忙しく、2,3歳の私はよく段ボールの箱に入れられて店先に置いておかれ、バスガイドさんたちが代わるがわる子守りをしてくれていたそうだ。なんとも、のどかな時代だった。
そんな場所だったから、我が家には庭というものがなく、家の前の道路が遊び場だった。国道で、縄跳びをし、横断歩道でけんけんをしていた。弟たちは、メンコや缶けりなどをやっていたように思う。夏休みには、花火も家の前の国道でやっていた。ヘビ花火なんてしようものなら、交差点中煙でいっぱいで信号もかすんでいた。街灯には、クワガタやカブトムシが飛んできた。(そういえば、小学生のころ以来、玉虫を見かけていないが、まだいるのだろうか?)
いつか弟のいたずらに激怒した母が、通りの街灯に彼を縛り付けたことがあった。抜け出そうともがく彼と、笑いながら通りを歩く人たち。今でも思い出すたび笑える場面だ。
他にもタクシー会社の裏のドラム缶がたくさん積んであるところや駅でよく遊んだものだ。近所の子供とドラム缶の上を走りまわったり、駅でかくれんぼなどして毎日、毎日日が暮れるまで遊んでいた。今思えばかなり危険な場所なのに、叱られた覚えもない。
汚い池で、ザリガニ釣りに夢中になったり、豚の赤ちゃんが生まれたと聞いては見にいったり、牛に追いかけられたり。
今、自分が親になってみて、もし子供がそんな場所に行くとしたら絶対「ダメ!」って言うような所ばかりで遊んでいた。
昭和40年代の高度成長期、大人も子供も今より確かにたくましかった。
子供のころの思い出は、あの頃球磨川の川原で拾ったきれいな石のように、時々取り出しては眺めてみたくなる大事な宝ものだ。
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