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はじめてのおつかい
2010年01月15日
お向かいのお店に、時々、近所の小学二年生のH君が、小さな自転車でお使いにやってくる。
そう言えば、最近、商店街で、お使いをしている子供はほとんど見かけない。
忙しいお母さんたちは、仕事帰りにスーパーで買い物を済ませるし、やはり事故などが心配という事もあって子供にお使いをさせないのだろうか?確かに、こんな田舎は別として、昔と違って物騒な世の中になってしまったから、なかなか子供一人で外には出しにくいという事もあるのだろう。
私の子供時代の3大お手伝いは、お茶碗拭き、洗濯ものたたみ、そしてお使いだった。
私の育った町は、今は体育館になっている所が、病院で、隣が床屋、回転焼き屋に洋装店、それからまた床屋があって肉屋、お菓子屋、小さなスーパー、おもちゃや、魚屋、そして建具屋、銭湯、酒屋と続き、横断歩道を渡って、金物屋と毛糸屋をしていた我が家、お隣は、洋服の仕立て屋で、傘屋、自転車屋、同級生がいた薬局兼文房具の店、パチンコ屋、毎日通った駄菓子、・・・・・といった具合で、どこの店にも、それぞれ思い出がある。(斜め前には、今は見かけない貸本屋もあった)
とにかく、商店街に育った私にとって、お使いは当たり前の事だった。
魚屋に行く時、手前の建具屋の前を通ると、作業をしていたおじさんは、必ず私が来たのを察知して、百面相をして顔をあげ笑わせてくれた。そんな、おじさんが大好きで、魚屋に行くのが楽しみだった。商店街にはそんな優しさがあふれていた。
それから、魚屋さんが魚をさばくのをじーっと見たり、買い物に来ているおばさんたちと話したり、知らず知らず、お使いの中で小さな社会を学んだりしていたのだろう。
長男が3歳ぐらいのころ、「初めてのおつかい」を頼んだ。彼へのミッションは、「肉のみやべ」さんで、「ぎょうざ」を2パック買ってくることだ。
後からそ~っと、付いて行ったのは、言うまでもない。
店に入るのを見届けると、商店街の中にある火伏せ地蔵堂の陰に隠れ、彼が出てくるのを待った。白いレジバックを持っている所をみると、買い物は無事にできたらしい。
初めての一人でのお使いをこなし、自信がついたのか、鼻歌を歌いながらスキップだ!!
私は、おかしくて、一人にやにやしながら、彼を見ていた。
お堂の陰で、一人、にやついている女。だれかが見たら、かなり危ない人だったろう。
そのうち、彼は、レジバックをぐるぐる回し始めた。
ひゃ~、帰り着いた時、餃子は原形をとどめているのだろうか?と、にやにやどころではなくなったのであった。
そんな感じで、今でも息子たちには、よくお使いをさせている。
「豚こま買ってきて。」と頼んだときは、
「豚こまって何?」(きっと、彼の頭の中では、豚が独楽の様に回ってたんだろうな)
という具合で、物の名前や値段を覚えたりするのも大切なことだと思う。
お店の人にも、子供の顔や名前を覚えてもらい、前を通ると声を掛けてもらったりしている。
私が買い物に行ったとき「Y君背が伸びたね。」とか「いつも、よくあいさつさすよ。」と言ってもらえると親としてもうれしいものだ。
子供たちが、昔のようにマイ買いかご(今は、エコバッグ)を持って、お使いに来てくれる、そんな商店街が復活するといいな。
お使いの中に、小さな冒険が詰まっている。
お母さんたち、もっと子供にお使いを頼んでみませんか?
きっと、いい子に育ちますよ!

あの頃、とってもお金持ちの家の子だったNちゃんだけが、クラスで一人だけ大阪万博にいいったなあ~!
そう言えば、最近、商店街で、お使いをしている子供はほとんど見かけない。
忙しいお母さんたちは、仕事帰りにスーパーで買い物を済ませるし、やはり事故などが心配という事もあって子供にお使いをさせないのだろうか?確かに、こんな田舎は別として、昔と違って物騒な世の中になってしまったから、なかなか子供一人で外には出しにくいという事もあるのだろう。
私の子供時代の3大お手伝いは、お茶碗拭き、洗濯ものたたみ、そしてお使いだった。
私の育った町は、今は体育館になっている所が、病院で、隣が床屋、回転焼き屋に洋装店、それからまた床屋があって肉屋、お菓子屋、小さなスーパー、おもちゃや、魚屋、そして建具屋、銭湯、酒屋と続き、横断歩道を渡って、金物屋と毛糸屋をしていた我が家、お隣は、洋服の仕立て屋で、傘屋、自転車屋、同級生がいた薬局兼文房具の店、パチンコ屋、毎日通った駄菓子、・・・・・といった具合で、どこの店にも、それぞれ思い出がある。(斜め前には、今は見かけない貸本屋もあった)
とにかく、商店街に育った私にとって、お使いは当たり前の事だった。
魚屋に行く時、手前の建具屋の前を通ると、作業をしていたおじさんは、必ず私が来たのを察知して、百面相をして顔をあげ笑わせてくれた。そんな、おじさんが大好きで、魚屋に行くのが楽しみだった。商店街にはそんな優しさがあふれていた。
それから、魚屋さんが魚をさばくのをじーっと見たり、買い物に来ているおばさんたちと話したり、知らず知らず、お使いの中で小さな社会を学んだりしていたのだろう。
長男が3歳ぐらいのころ、「初めてのおつかい」を頼んだ。彼へのミッションは、「肉のみやべ」さんで、「ぎょうざ」を2パック買ってくることだ。
後からそ~っと、付いて行ったのは、言うまでもない。
店に入るのを見届けると、商店街の中にある火伏せ地蔵堂の陰に隠れ、彼が出てくるのを待った。白いレジバックを持っている所をみると、買い物は無事にできたらしい。
初めての一人でのお使いをこなし、自信がついたのか、鼻歌を歌いながらスキップだ!!
私は、おかしくて、一人にやにやしながら、彼を見ていた。
お堂の陰で、一人、にやついている女。だれかが見たら、かなり危ない人だったろう。
そのうち、彼は、レジバックをぐるぐる回し始めた。
ひゃ~、帰り着いた時、餃子は原形をとどめているのだろうか?と、にやにやどころではなくなったのであった。
そんな感じで、今でも息子たちには、よくお使いをさせている。
「豚こま買ってきて。」と頼んだときは、
「豚こまって何?」(きっと、彼の頭の中では、豚が独楽の様に回ってたんだろうな)
という具合で、物の名前や値段を覚えたりするのも大切なことだと思う。
お店の人にも、子供の顔や名前を覚えてもらい、前を通ると声を掛けてもらったりしている。
私が買い物に行ったとき「Y君背が伸びたね。」とか「いつも、よくあいさつさすよ。」と言ってもらえると親としてもうれしいものだ。
子供たちが、昔のようにマイ買いかご(今は、エコバッグ)を持って、お使いに来てくれる、そんな商店街が復活するといいな。
お使いの中に、小さな冒険が詰まっている。
お母さんたち、もっと子供にお使いを頼んでみませんか?
きっと、いい子に育ちますよ!
あの頃、とってもお金持ちの家の子だったNちゃんだけが、クラスで一人だけ大阪万博にいいったなあ~!
ジャングル大帝レオ
2009年09月27日
今朝は、なかなかいいもの発掘しました。
ジャングル大帝レオのお茶碗です。
昔は、ちゃぶ台をみんなで囲み、子供はこんなプラスティックのお茶碗でご飯食べてましたよね。
そしてお父さんには、みんなと同じおかずののほかに、酒の肴がもう一品あったものでした。(今の我が家には、ありません。かわいそうな主人)
うちの、お父さんの酒の肴の定番は、クジラの冷身。
これは、クジラの刺身を凍らせたもので、生姜醤油で食べてましたっけね~?すっごっく冷たいんですよ。
よそでは見たことないので、たぶん、私のふるさと、独特のものではないでしょうか?
というか、今では、クジラそのものがなかなかないですが。
それを、ちょっともらったりするのが楽しみでした。
そして、父はキリンビールでしたね。もちろん瓶です。
うちの、まん前が酒屋さんでしたのでよく「キルンビール一本ください。」ってお使いに行ったものでした。なので、今でも、キリンのラベルを見るとなんか昔の事を思い出したりします。
小学校の空きビン回収でそんな事を考えて、感慨深く作業をしているのは私ぐらいでしょうね。
以前も書きましたが、私が初めて見た映画が、ジャングル大帝レオでした。
うちにはそんな余裕はなかったですが、母の実家の叔母が連れて行ってくれたのでした。
もう、ずいぶん昔に無くなってしまった街の小さな映画館に行ったのも、
それが最初で最後だったかもしれません。
ブラジル式?!
2009年08月17日

ある方より、古い写真を頂きました。いつの頃の写真かはよくわかりませんが、
どうも、建物は、昔の岩城屋らしいとのこと。
しかし、二階には
「ブラジル式 西洋御料理」
の看板が!
もう、昔の事を知っている方も少なくなり、謎は深まるばかり・・・。
当時大変な賑わいだったという馬見原。
最先端の西洋料理の食堂があった事からも、その様子がうかがえます。
ブラジル式ってどんな料理だったんでしょうかね~。
時代は周る
2009年07月19日

2日前に入荷した、昭和レトロ風 水筒 1890円

先日、屋根裏倉庫で発掘した本物の昭和レトロの象印水筒 非売品
「ダサい、古臭い」と社会から抹殺されていったものが、数十年の時を経て、
今度は「かわいい、お洒落」と
言われる。
私たちの感性は、何に、もしくは誰に操られているのでしょうかね?
いつか、蓑や笠が「超おしゃれ~!」と言われる時代が来たら、岩城屋に在庫ございます。
お宝発掘
2009年07月12日
昨日は、ひどい雨でお店も暇でした。
久々に屋根うらの倉庫に上って何かめぼしい物がないかと物色。
見つけました!

超レトロな象印ランチボックス。
保温ランチボックスなるものが、この世に登場したぐらいの代物ではないでしょうか?
私も、この形は初めて見ました。

それから、アタックナンバーワン(たぶん)のアルミのお弁当箱。
昔は、これをストーブで温めたものです。
ふたつとも、岩城屋博物館に展示しましたので見来てくださいね。
懐かしいもの、まだまだありそうです。また紹介します。
久々に屋根うらの倉庫に上って何かめぼしい物がないかと物色。
見つけました!

超レトロな象印ランチボックス。
保温ランチボックスなるものが、この世に登場したぐらいの代物ではないでしょうか?
私も、この形は初めて見ました。

それから、アタックナンバーワン(たぶん)のアルミのお弁当箱。
昔は、これをストーブで温めたものです。
ふたつとも、岩城屋博物館に展示しましたので見来てくださいね。
懐かしいもの、まだまだありそうです。また紹介します。
6丁目の夕日
2009年05月07日

だいちゃんかぞえうたソノシート 岩城屋昭和レトロコーナー展示
連休も終わりましたね。
でも、まあ世間のGWも商売人の子供には、なんの関係もありません。
私も、駅前商店街の子供だったので連休といっても、親にどこかに連れて行ってもらった事もなく、またそれが当り前のように育った。
うちは駅前の通りと国道が交差する交差点の角の信号機の下で金物屋と毛糸屋をやっていた。
今ほど車の交通量はなかっただろうが、商店街もかなり活気があったように思う。
うちの斜め前の交差点の角は、産交バスのターミナルでバスガイドさんの寮もあった。
母はとにかく忙しく、2,3歳の私はよく段ボールの箱に入れられて店先に置いておかれ、バスガイドさんたちが代わるがわる子守りをしてくれていたそうだ。なんとも、のどかな時代だった。
そんな場所だったから、我が家には庭というものがなく、家の前の道路が遊び場だった。国道で、縄跳びをし、横断歩道でけんけんをしていた。弟たちは、メンコや缶けりなどをやっていたように思う。夏休みには、花火も家の前の国道でやっていた。ヘビ花火なんてしようものなら、交差点中煙でいっぱいで信号もかすんでいた。街灯には、クワガタやカブトムシが飛んできた。(そういえば、小学生のころ以来、玉虫を見かけていないが、まだいるのだろうか?)
いつか弟のいたずらに激怒した母が、通りの街灯に彼を縛り付けたことがあった。抜け出そうともがく彼と、笑いながら通りを歩く人たち。今でも思い出すたび笑える場面だ。
他にもタクシー会社の裏のドラム缶がたくさん積んであるところや駅でよく遊んだものだ。近所の子供とドラム缶の上を走りまわったり、駅でかくれんぼなどして毎日、毎日日が暮れるまで遊んでいた。今思えばかなり危険な場所なのに、叱られた覚えもない。
汚い池で、ザリガニ釣りに夢中になったり、豚の赤ちゃんが生まれたと聞いては見にいったり、牛に追いかけられたり。
今、自分が親になってみて、もし子供がそんな場所に行くとしたら絶対「ダメ!」って言うような所ばかりで遊んでいた。
昭和40年代の高度成長期、大人も子供も今より確かにたくましかった。
子供のころの思い出は、あの頃球磨川の川原で拾ったきれいな石のように、時々取り出しては眺めてみたくなる大事な宝ものだ。
懐かしいあの頃
2009年02月23日

先日、友人4人で内牧食べ歩き&散策に行ってきました。
いろんな方々との出会いがあり、とても楽しくそして勉強にもなりました。
内牧の商店街の皆さんも、一生懸命街づくりをされていていました。
どのお店に行っても、お茶やコーヒーを出して下さり、「おもてなしの心」が伝わりました。
馬見原には、残念ながら喫茶店がないので
せっかく来てくださったお客さんがちょっとお茶でも飲んで休める場所があればなあ~と
常々考えてはいたのですが、なかなか場所の確保ができなかったのです。
主人も、同じことを考えていらしく、なんとか、金物屋岩城屋の方にお茶処を設けてみようと
今日から片付けはじめました。
ただ、お茶出すだけでは、つまらないので、我が家に眠っていた、懐かしいものを引っ張りだし
昭和レトログッズコーナーを作ることに。
前からちょっとは置いてあったのですか、もうちょっとなんかないかなあ~と探したところ
「ポパイ」を見つけました。
昔、アイビー少女だった私にとっては「なつかし~!!」て感じです。
ついでに、私が初めて見た映画でもある「ジャングル大帝レオ」の椅子も発見したので
一緒に飾ってみました。これは、主人が勉強するとき使ってたものらしです。
お時間があれば、ぜひ懐かしい物に出会いに、馬見原へおいでください

チョコレートへの想い、アメリカへの想い 続き
2009年02月16日

・・・昨日のつづき
高校を卒業した私は、熊本を出てある地方都市で生活を始めた。そして、ついにソニープラザなるハイカラな店で、あの長年想いい続けたアメリカのチョコレートと遭遇したのである。
あのおばさんの言葉にウソはなく(持ってきてあげるというのはウソだったが)
そのチョコは、日本の板チョコに比べかなり分厚く大きかった!
長年の夢がかなった私は、ルンルン気分で学生寮に帰り、思いっきりそのチョコにかじりついた。
「・・・・・・・・・・。」
「マズッ!!」
アメリカの大きなチョコは味も大味だった。ロッテ ガーナチョコレートのほうが、百倍おいしいと、日本人の繊細な味作りを誇りに思った。そして、アメリカチョコへの失望と同時に私のアメリカへの憧れも急速に冷めて行ったような気がする。
それから、また十数年後、結婚して二人の子供を連れて行ったある会で、私は思いがけず、あのアメリカ人の男の子に再会した。もちろん、もう男の子ではなく、髭をはやしスーツを着ていた彼は、誰もが知っているグローバルな会社の日本の副社長になっていた。
「私の事、覚えてないでしょ?」と聞くと「いや、覚えてるよ。」と言ってくれ、なんだか嬉しかった。
そして、今のところ、私はまだ一度もアメリカに行ったことがない。20ヶ国ほどの国に行ったし、今ではアメリカに兄弟や親せき、友人たちもいて、みんな遊びにおいでと言ってくれるのだが・・・。
もし、私が今アメリカを訪ねても、私が子供のころ想い憧れたアメリカを見つけることはできないだろう。
あのチョコにかじりついた時と同じ失望感を味わうのが怖いのかもしれない。
長い文章、読んでくださってありがとうございました。ロッテの関係者の方がいらっしゃいましたら、宣伝費はガーナチョコレートでお願いします。
チョコレートへの想い、アメリカへの想い
2009年02月15日
昨日のバレンタインにちなんで、チョコレートの思い出。
40年以上前の話で恐縮だが、いなかの幼稚園生の私が、おばあちゃんちの庭で遊んでいると、知らないおばさんが訪ねてきた。
おばさんは、私がチョコレートを食べているのを見てこう言った。「チョコレートが好きなの?アメリカのチョコレートは、すごーく厚くて大きいのよ。今度持ってきてあげるわね。」
そのおばさんはアメリカに住んでいたのか、何者だったのかはさっぱりわからないが、とにかく、子供の私の頭の中は、そのアメリカのでっかくて、今までに食べた事のないであろうおいしさの、チョコレートの妄想でいっぱいになった。
それから、そのおばさんがいつかチョコを持って現れる日を待ち続けたが、とうとう二度とそのおばさんに会うこともなく、私のアメリカのチョコレートへの思いは募るばかりだった。(大人は子供に嘘をついてはいけません)
小学生にになった私のお気に入りのテレビ番組は「名犬ラッシー」と「わんぱくフリッパー」。緑の芝生の広い庭、大きなテレビに冷蔵庫、その中には、これまた大きなアイスクリームが入っている。あんな賢い犬や、イルカさえ飼えるアメリカへの憧れは、募る一方だった。大人になったら、絶対アメリカに住もうと子どもながら心に決めた。
中学生のころ、アメリカ人の友達がいた。私が重い荷物を運んでいると、それを代って持ってくれながら、(ここが、気の利かない坊主頭の日本の中学生男子と違うところだ)「今度アメリカに帰ることになったから。なんか、アメリカから送って欲しいものある?」と聞かれた。私は、何にも思いつかず、「アメリカのお金見たことないから、手紙と一緒に1ドル札入れといて。」と、答えた。このシュツエーションは恋愛少女漫画のようだが、私にはなんの恋心もなく、(向こうは、多少私に気があったと思う)彼の帰国を悲しく思うより、あの時「チョコレートを送って。」となんで言えなかったのか、ということのほうが悲しかったぐらいだ。
結局、彼からの1ドル札の入った手紙は来ることもなく、私からも手紙を出すこともなく、いつの間にか、もらったアメリカの住所も紛失した。
それから、アメリカの女の子と文通なんかもしたりして、アメリカに対する憧れをいだきつつ、熊本の田舎の町で平凡かつ品行方正な少女時代を送った。
明日につづく・・・・・。
40年以上前の話で恐縮だが、いなかの幼稚園生の私が、おばあちゃんちの庭で遊んでいると、知らないおばさんが訪ねてきた。
おばさんは、私がチョコレートを食べているのを見てこう言った。「チョコレートが好きなの?アメリカのチョコレートは、すごーく厚くて大きいのよ。今度持ってきてあげるわね。」
そのおばさんはアメリカに住んでいたのか、何者だったのかはさっぱりわからないが、とにかく、子供の私の頭の中は、そのアメリカのでっかくて、今までに食べた事のないであろうおいしさの、チョコレートの妄想でいっぱいになった。
それから、そのおばさんがいつかチョコを持って現れる日を待ち続けたが、とうとう二度とそのおばさんに会うこともなく、私のアメリカのチョコレートへの思いは募るばかりだった。(大人は子供に嘘をついてはいけません)
小学生にになった私のお気に入りのテレビ番組は「名犬ラッシー」と「わんぱくフリッパー」。緑の芝生の広い庭、大きなテレビに冷蔵庫、その中には、これまた大きなアイスクリームが入っている。あんな賢い犬や、イルカさえ飼えるアメリカへの憧れは、募る一方だった。大人になったら、絶対アメリカに住もうと子どもながら心に決めた。
中学生のころ、アメリカ人の友達がいた。私が重い荷物を運んでいると、それを代って持ってくれながら、(ここが、気の利かない坊主頭の日本の中学生男子と違うところだ)「今度アメリカに帰ることになったから。なんか、アメリカから送って欲しいものある?」と聞かれた。私は、何にも思いつかず、「アメリカのお金見たことないから、手紙と一緒に1ドル札入れといて。」と、答えた。このシュツエーションは恋愛少女漫画のようだが、私にはなんの恋心もなく、(向こうは、多少私に気があったと思う)彼の帰国を悲しく思うより、あの時「チョコレートを送って。」となんで言えなかったのか、ということのほうが悲しかったぐらいだ。
結局、彼からの1ドル札の入った手紙は来ることもなく、私からも手紙を出すこともなく、いつの間にか、もらったアメリカの住所も紛失した。
それから、アメリカの女の子と文通なんかもしたりして、アメリカに対する憧れをいだきつつ、熊本の田舎の町で平凡かつ品行方正な少女時代を送った。
明日につづく・・・・・。
お宝発見?!
2009年02月04日

お宝鑑定団は、私の大好きな番組です。
よく、近所の人とかから、「おたくは古か家だけん、お宝のいっぱいあるど?」と言われます。
私も主人に何回か「うちにもなんか、お宝ないと~?」と聞いてみたんですが、答えは「なん~もない!!」。
ひいおじいちゃんやおじいちゃんは、骨董品や美術品にまったく興味がなかった人らしく、ちょっとお金が入ると、芸者さんを呼んで、みんなで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしてたらしいです。
それでも、なんかひとつぐらいあるかもと、店を改修するとき倉庫やいろいろ探してみたけど、ほんとな~にもありませんでした。
その代り見つけたのが、昭和レトロの数々。キャンディーズ伝説は、義弟が買ったものらしいです。
オリジナルソノシート付きですよ!!

金物屋岩城屋の方に、ちょっこと昭和レトロコーナーを作って展示してますので、馬見原においでの際は覗いてみてください。

私がたった一つ持っているお宝が、このテレホンカードです。たぶん一番最初ぐらいのもので、電電公社と書いてあって、丁寧に使い方説明書までついています。
15年ぐらい前、父の財布に入っているをたまたま見つけ(おこずかいをくすねようとしてたわけではありませんよ)
「こりゃあ、将来価値がでるかも、うししっ」と頂いておきました。
でも、携帯電話の普及で、テレホンカードに今価値はあるんでしょうかねえ...?
とらぬ狸のなんとか.....になってしまいました。とほほ。