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やっとこさ、ポルトガルへ

2011年03月03日

この路地の先に・・・その34



サハラ砂漠を後にし、運転手モハメッドの家におじゃまして、タジンをごちそうになり、
シャワーも使わさせてもらい、ほっと一息。

洗濯物が溜まっていたけど、ここには、コインランドリーなんてあるわけもなく、
なんと川で洗濯。
どんぶらこっこと、何にも流れてはこなかったけど、これもまた楽しい体験だった。


次の朝、車のエンジンが、かからない。
なんとか、他の人の手助けで、出発出来たものの、大丈夫か?この車。


(押せ~、押せ~)

モロッコでは、車同士がすれ違う時、指でサインを出す。
「問題ない、大丈夫」という意味だ。もし、トラブルがあれば、お互い助け合うらしい。



しばらく、走っていると、車のホイールが壊れて、走れなくなってしまった。



(このカスバの下でした)
通りがかりの人に、修理の人を呼んで来てもらって、修理ができるまで、道端で延々3時間待った。
近所の人が、ミントティーを差し入れしてくれた。





なんか、もう疲れた~。スペインに帰りた~い!!

そう、わめいていた私たちを、2人のモハメッドが、港のあるタンジェまで送ってくれる事になった。タンジェまでの途中も、果てなく広がるひまわり畑を、ベルベルミュージックを聞きながらがんがん飛ばして行った。それでも、途中一泊しないと、着かないほど、遠かった。

多分、かなりぼったくられた気もするけど、とにかく早くヨーロッパに帰りたかったのだ。

モロッコでは、もう二度と見ることのできない風景にも沢山出会えたし、親切な人たちにも、い~っぱい、い~っぱいお世話になったし、ぼったくられたりもした。
大自然の美しさも、厳しさも見て、人間のしたたかさも、優しさも見た。
貴重な体験をいっぱいさせてもらった。
そして、本当にほんとうに疲れた。

スペイン行きのフェリーの中では、三時間、口を開けて、ほとんどいねむりしていた。

アルヘシラスの港から、一旦夜行列車でマドリッドに行き、空港では待ち時間ゼロで、ポルトガル、リスボンへ飛んだ。

本当は、ゆっくり、列車で、スペインから、ポルトガルへ入りかったのだが、モロッコですっかり日にちを食ってしまったので、仕方がない。

あ~、やっぱり、ヨーロッパって落ち着く~。
が、ひどい下痢。やられた~!!助けて~!!




  


サハラ砂漠での一夜

2011年01月13日

この路地の先に・・その33




こんな、砂漠の中にホテルが存在しているということさえびっくりだったけど、
ちゃんと、シャワーはお湯も出て、砂まみれの私には嬉しかった。

そして、夕食の後、いきなり始まった旅人達の音楽会は鳥肌ものだった。

聞きなれないアラブの旋律。
けれど、そのリズム感は、やはり、アフリカの人たちなんだな~ということを強く感じさせた。




どこか不思議な世界に迷い込んだ様な感覚に見舞われながら、屋上へ登ってみると、
そこでは、今まで見たこともない、そして、たぶん二度と見ることができない無数の星が煌めく夜空が私を迎えてくれた。

あたりは、全く人工的な光のない漆黒の闇。ただ、ただ月と星たちだけが美しく輝いていた。
聞こえるのは、風の音だけだ。

このまま、ホテルの部屋なんかで寝るなんてもったいと思った私は、毛布にくるまり
一晩中、屋上で、星を見ながら過ごした。この夜の星空は一生忘れないと思いながら・・。


夜が明け、星の輝きも薄れる頃、私は立ちあがり屋上からあたりを見回すと、
やはりそこは、砂一面の世界が広がるサハラだった。

子供の頃、宮崎に子供の国という遊園地があって、何度か連れて行ってもらった事があった。
そこで、子供たちに一番人気のアトラクションは、本物のラクダに乗って園内を一周するというものだった。私は、それに乗りたくてたまらなかったが、きっと料金が高かったのだろう。子供ながらに、遠慮して、とうとう乗りたいとは一度も言いだせなかった。

しかし、こんな所で、その夢が実現するとわね。
きっと、いままでいい子にしていた神様からのご褒美にちがいない。






  


サハラ砂漠

2010年12月09日

この先の路地に・・・その32


トードラ谷から帰って、今度は、サハラ砂漠へ連れて行って貰える事になった。

彼が連れてきた運転手の名前は、モハメッド。そういえば、名前を書いてなかったが、私たちを泊めてくれたのも、モハメッド。
お互い、モハメッドと呼び合っていた。ややこしい~。

モロッコでは、一家に一人は、モハメッドがいるらしい。
というわけで、道で、「モハメ~ッド!!」と呼べば、半分ぐらいの人が、振り向くのだ。
ん~やっぱり、ややこしい。

運転手モハメッドは、運転技術はいまいちだけど、見るからに人がよさそうな人物で、
信仰深く、時間になると、車を止めて、ござを持って走り、
メッカの方向に向かってお祈りを欠かさなかった。

しかし、いかんせん、車がぼろ。
エンストはするし、大丈夫なのか?ちょっぴり、不安。


周りは、草がまばらに生えている準砂漠へと入ってきた。
あれは、野生のラクダの親子?





砂漠に入り、しばらく行くと、ついにタイヤが砂に埋もれ、動かなくなってしまった。
ひえ~、私はこんな所で、サハラの砂と化すのか・・・。


風が強くて、砂嵐も起こり、巻いてくれたターバンが、とっても役にたった。
砂漠の強い日差しや、砂から守ってくれるターバンは、砂漠の民には必需品だと、身をもって体験できた。


みんなで、必死で車を押す。

「ほら、あそこに、蜃気楼が見えるだろう。」なんて言われたけど、見えるような、見えないような。

なんとか、砂から脱出し、砂漠の中の小さなホテルへと到着したときは、あたりはもう暗くなっていた。

  


世界ウルルンみたい・・。

2010年11月27日

この路地のさきに・・その31


彼の家は、あの丘から見えた沢山の土の家の中の一軒だった。

その家には、彼のお兄さんと奥さんと子供たち、そして2人の妹さんが住んでいた。
彼らは、私たちを快く歓迎してくれた。

マラケシュでお世話になったカリッドの家とは違い、美しいモロッコタイルもなければ、中庭も見当たらなかった。床も土でできた床にござを敷いただけだ。
でも、テレビもビデオデッキもあり、貧しい暮らしというわけではなく、この辺はこんな様式の家なのだろう。

モロッコには、アラビア人とベルベル人がいて、彼らはベルベル人だということだった。
その辺に違いがあるのかもしれない。


床に座って、丸いちゃぶ台を囲み、一つの皿からみんなで分け合う食事は、手で食べる事を除けば、一昔前の日本の家族という感じだ。





妹さんたちは、カーペットを作っていて、私たちにもやらせてくれた。
一枚のカーペットが出来上がるまでには随分かかるのだろう。



針の付いた板で、羊毛を均等にならす



それをよって糸に


彼女が織っているのはブランケット


私も挑戦

その日は、結局、彼の家に泊めてもらった。

次の日は、ミュラーという、ロバみたいな動物に乗って、美しいトードラ谷へ出かけた。



お尻がむっちゃ痛かった!!

(トードラの写真がいいものがなかったのでご覧頂けなくて残念。すばらしい所でした。)  


オアシスの町

2010年10月19日

この路地の先に・・その30


ワルザザードは、カスバ街道の中心で、サハラ砂漠への入り口の街でもある。

しかし、ガイドブックを持ってない私たちは、その時、そんな情報も知るすべもなかった。それに、人間勝手なもので、モロッコ人の親切を通り越したしつこさにもちょっと辟易してきて、そろそろヨーロッパに帰りたくなっていた。

アトラスもとりあえず越えてみたし、ここから、エルラシディア行きのバスに乗り、フェズ、そしてタンジェというルートで、スペインに帰る事にした。


エルラシディアに向かう途中でバスに乗り込んできた、なんかちょっと変わった感じのお兄さん。日本人か、と聞くのでそうだと答えるとおもむろに手紙を取り出し見せてくれた。

その日本語の手紙の差出人は、デーモン小暮閣下だった。
内容は、プライベートでモロッコを旅した時、彼に出会いとても親切にしてもらったということだった。
はたして、本物?
疑わしげに見つめる私たちに、彼は、デーモン閣下から送られてきたという、
帽子やなんやかんやを見せてくるのだった。
そして、どうしても今日はうちに寄ってくれと言うのだ。

いや、今日中にタンジェまで帰りたいと何度か断った私たちにであったが、
彼の明日には絶対着けるからという言葉にとうとう根負けしまいバスを降りてしまった。


そして、丘に登り見たものは、息を飲む様な本当に美しいパームヤシのガーデン(森)


その向こうには、土づくりの家が立ち並んでいる。
ガーデンの中には、かわいい小川が流れ、それを飛び越えてみたりしながら、小鳥のさえずりを聞きつつ散歩すれば、すれ違う人たちは、優しい笑顔で「ボンジュ~ル」「サバ?」と挨拶してくれる。





まさしく、ここはオアシスの町。
こんな、美しいところがモロッコにあったんだ!
マラケシュの雑踏と執拗な客引き、そして、はげ山しか知らなかった私たちは、この静かなティネリールの美しさにすっかり魅了されてしまった。



(閣下から頂いた認定証。これも何かの縁かな)
  


アトラス山脈越え

2010年10月17日

この路地の先に・・その29


夕べ、遊びに来ていた大学生の男の子から、朝ごはんの招待を受けた。

かわいい妹さんの掌には、オレンジ色の美しい模様が描かれていた。
これは、ヘンナというものだそうだ。





実は、数日あと、私たちも、このヘンナを経験する事になるのだが、
これって、当分の間は消えなくて、日本に帰ってから、ひたすら手を隠すはめになってしまった。

お昼ごはんは、ラシッドの友人が住む新市街地にあるマンションで御馳走になった。

この辺りは、城壁の中とは違い、現代的な建物が立ち並んでいた。
一緒に食事をした友人たちは、中学校の数学の先生、エレクトロニックの先生、
医大の学生と、ここはちょっと、インテリな人たち住んでいる場所らしい。
でも、みんな、気さくでいい人ばかりだ。




そのあと、私たちは、おんぼろバスに乗り、アトラス山脈を越えた先にある町、
ワルザザードへ向かった。

窓の外は、ほとんど樹木も生えてないごつごつとした岩肌の荒涼とした風景が続く。

日本に帰って、杉の木が整然と立ち並ぶ美しい山々を見た時、
今まで当たり前すぎて、なんとも思っていなかった緑で覆われた山に初めて感動した。
日本って、こんなに美しい国だったんだと、再認識できたことだけでも、
この旅の意義があったように思えた。
(その後、花粉症にかかって、毎年苦しむので、今は杉の山は憎たらしいだけだが)

そんな道の傍らで、石を売っている人がいた。
化石とか、水晶などらしいが、ここで、重たい石のお土産を買うわけにはいかない。



ほんのちょっと、覗いて帰るはずだったモロッコだが、
マラケシュの喧騒や、人々の人懐っこさと優しさに出会い、
その不思議な魅力に引き込まれるように、
どんどん奥地へと入り込んでしまう事になっていった私たちであった。

しかし、アトラスの向こうには、まだまだ、私たちの知らないモロッコが待ちかまえていた。

  


この路地の先に・・その28

2010年09月03日

何?これって、モロッコ流のジョーク?
ここは、笑うべきところなのか?

いや~なんと返事をしたらいいのか、とっさに出た言葉は
 
    「日本で、父が待ってるから、帰らないとね~。」

「じゃあ、僕は、あなたのお父さんの為に、マラケシュに家を建てます。」
   
(ひゃ~)

一瞬、モロッコの民族衣装ジュラバを来て、マラケシュの夕日を背にカスバに佇む父を想像してしまった。

もちろん、丁寧にお断りさせていただきました。

実は、これは、私がモテたわけでもなんでもなく、とにかく、モロッコの男性はすぐ
「結婚してくれませんか?」って言ってくる、というのが事の真相で、
モロッコにいた間、何度かプロポーズされた。

断っても、特に落ち込むわけでもなく、あっさり引き下がる紳士的な態度も、なんだか、おかしかったけど。


とにかく本気なのか、冗談なのか、彼らの真意は最後までわかずじまいだった。


今は随分変わったとは思うが、当時モロッコではまだ、親が決めた結婚が多かったのではないだろうか。町にも、あまり女性の姿はなかったし。
だから、数打ちゃ当たるとでも考えていたのかな?
でも、だからと言って、そんな唐突なプロポーズを受ける人いるのかは疑問だけど。

日本では今、婚活ブームらしいが、草食系だとかなんとか言われている今時の日本男児も、彼らの積極性をぜひとも見習ってほしい気がする。

その日は、ラシッドの家でお母さんが作ってくれた、タジンの夕飯をごちそうになった。
他の友人も集まり、お互いの国の歌を歌いあったり、マイケル・ジャクソンクソンのダンスやブレークダンスを見せてくれたりして、大賑わいの夜であった。


草食系男子に辟易している肉食系女子の方々、モテモテ体験をしてみたい貴方、今度のバカンスは、ぜひモロッコへどうぞ!





カスバ  


この路地の先に・・その27

2010年07月28日

マラケシュのメディナの中は、このタイトルみたいに、迷路のような路地だらけ。
行けども行けども、一度迷い込むと、どこが出口やら。

途中、昨日車で送ってくれたジーンに偶然遭わなければ、本当に迷子になってた。

町を散策していると、2人の若者が話しかけてきた。


「君たち日本人?僕たちが、町を案内してあげようか?」

     「あなたたち、ガイドなの?」

「いや、ちがう。」


なら、信用できるかも。

というのは、マラケシュにうじゃうじゃいる自称ガイドという奴ほど、胡散臭いものはなく、
あとで高額な料金を請求してきたり、変な所に連れて行かれたりするから気をつけろという話を、
スペインで知り合った友達から聞いていたからだ。
その時は、モロッコに行くつもりもなかったので、聞き流してはいたのだが。

モロッコでは、本当に色んな人が話しかけてくる。
聖書の中に「旅人をもてなしなさい。」という教えがあるように、
きっとイスラムにも同じような教えがあるのだろう。
心からの親切心で、声をかけてくれる人も多いが、お金目当ての人たちもいるのは事実である。
全ての人を拒否していたら、それはただの観光名所巡りの旅になってしまうし、
全てを受け入れていたら危険な目にも会う。それを見極めるのは、自分の勘に頼るしかないのだ。

この若者たち、警官のラシッド、ホテルマンのカリムは信頼できるように思えた。
昼間は暑くて観光できないからと、夕方に会う約束をして別れた。

スーク(市場)に行くと、みんな日本語で話しかけてくる。
商魂たくましい人たちにたじたじである。

私が、この世で、一番苦手なものの一つが、値切り交渉。
観光客とみれば、3倍、4倍の値段を吹っかけてくるアジアやアフリカの買い物は小心物の私には、とても苦痛なのだ。
この時ばかりは、「あ~、大阪のおばちゃんの心臓がほしい。」と思わずにはいられない。
「そんなに高いなら、いらへんわ。」とか言って帰るふりとかしてみたい。

でも、せっかく来たんで、皮のベルトを一本と民芸品の化粧品入れを買った。


夕方、約束していた彼らと再会し、町をあちこち案内してもらった。




                     (エル・バティ宮殿跡)

ラシッドは警官ということで博物館の入場料とかも無料にしてもらえた。
(明らかに職権乱用)




                      (バビア宮殿)





博物館を出たところで、ラシッドが言った。


「あの~、僕と結婚してもらえませんか?」

     「はあ~?」

  


この路地の先に・・その26

2010年07月09日

今日は、ラマダン明けの特別な日ということで、サウジアラビアで仕事をしているお父さんも、
もうすぐ帰ってくるとの事。
久しぶりに家族が集まっての団欒に、お邪魔するのも気が引けるので、
そろそろホテルに移ることにした。


突然やってきた、見知らぬ東洋人をみんなで暖かく迎えてくれた、やさしい家族。
でも、おいしい料理を作ってくれた、お母さんにとうとう会うことはなかった。
イスラム教の女性は他人には顔は見せないというが、モロッコはそう戒律が厳しい所ではないらしく、
若い人たちは、ジーンズにTシャツという私達と変わらないスタイルだったけど。

お母さん世代は、そういう戒律を守っているという事なのだろうか。
直接会って、お礼を言えなかったのがとても残念だった。

イスラムの人たちは、テロなどでとても怖いイメージがあるが、私たちがモロッコで出会った人たちはみんなやさしい人たちばかりだった。
カリッドの家族が私達をもてなしてくれたのは、彼らが裕福だったからというのではなく、
これからのモロッコの旅の中で、けっして裕福とは思えない人たちも、私達の事を一生懸命もてなそうとしてくれた。

明日も、マラケシュを出る前に家に寄れと言ってくれたカリッド達に別れを告げ、
教えてもらった安くて安全なホテルにタクシーで行くことにした。
子供たちが寄って来て、タクシーを捕まえてくれたのだが、途中、いきなり違うお客さんも乗り込んで来たのにはびっくり。乗合なんだ~!

着いたホテルは、まさしくジャマ・エル・フナ広場のまん前だった。
広場は、昔公開場処刑だった所で、今は、なんか不思議な人がいっぱいいる楽しいところだ。
アクロバットや、蛇使いなど、色々な見世物をやっていた。





水売りのおじさんは赤い衣装を身にまとい、写真を撮ったら1ディラハム要求されるらしい。
(先日BSTBSテレビでモロッコをやっていたが、10倍の10ディラハムに値上がりしていた!)
どんなに、こっそり撮ってもおじさんは気がつくとか。
http://pics.livedoor.com/u/monbab/46514
おじさんは、こんな感じ↑

ホテルの屋上に上がると、広場や街が見渡せた。



(マラケシュの夕暮、クトゥビアの影が遠くに見えた)

7時半にコーランが街に流れ始めると、それぞれの家の屋上で、祈りを捧げる姿が見えた。
昨夜汽車の中で、ほとんど一睡もできなかったので今日は、早く休むことに。
明日は、マラケシュ探検だあ!




(ロケーション最高のホテル)




  


この路地の先に・・その25

2010年06月26日

城壁に囲まれた、メディナの中にあるカリッドの家。
テレビで見たことはあったが、実物は初めて見るアラブ式の家だ。

では、お邪魔いたします。





真中には、吹き抜けのモロッコタイルが敷き詰められた中庭があり
その四方に一つずつ、部屋がある。
2階も同じように四方に部屋があり、3階はテラスになっていた。


清潔でキチンと整理された素敵なお家だ。
小さな子どもが、掃除をしていたので、
「妹?」と聞くと、
「違う」とのこと。

使用人ってことなのかな~?小学校低学年ぐらいだったけど。
お国によってそれぞれの事情があるので、深くは聞かなかった。



英語の先生というお姉さんのラジャットや、リセ(多分、フランス系の学校)に通っている妹のレイラ、フランスで働いているお兄さんなど、兄弟は7人ぐらいいるらしい。小さな子どもたちは姪や甥みたいだ。
みんなキチンと教育を受けている事からしても、かなり裕福な家庭という印象を受けた。
トイレは例のアラブ式トイレだったけど、ぴっかぴっかにきれいだった。
(良かった~!!でも、やっぱりトイレットペーパーはなかった)


暖かいお湯のでるシャワーを使わせてもらったあと、お昼御飯を御馳走になった。

黒っぽいパンと、香辛料の利いたスープで煮込んである肉の上にフライドポテトが乗ったもの、トマトと玉ねぎのサラダ、ズッキーニ?の煮込み、そしてオレンジジュースというメニューだった。

パンと好きなおかずを、右手の親指、人差し指、中指で一緒につまんで口に入れるのだが、
これまた、初めての体験で、なかなか慣れるまでは難しかった。
でも、とってもおいしかった!
特に辛いとか、食べにくいとかいう事もなく、日本人にも受け入れられやすい味だと思った。

御馳走になったお礼に、ちょっとお手伝い。
おばあちゃんと一緒にアーモンドの皮むきをやった。これをつぶしてお菓子を作るのだそうだ。
友達がトイレに立ったとき、おばあちゃんがラジャットを通して
「あの子は、大人?子供?」と私に尋ねた。

小柄で、かわいらしい彼女。
私たちからしたら、アフリカや、アラブの人たちの年齢がわかりづらいのと同様に、
彼女たちからしたら、東洋人って年齢不詳に見えるんでしょうね(笑)。




妹のレイラ 2階に彼女の部屋があるのかな。



カリッドとおいっこめいっこ  


この路地の先に・・その24

2010年06月14日

堅い座席で、ほとんど一睡も出来ないまま、マラケシュへ到着した。

CALIDが、友人に迎えに来てくれるよう電話をしていた。
「日本人も一緒だって言ったら、あいつ、日本人!?て、びっくりしてたよ。」だって。

そうそう、迎えが来るまでに大事なこと聞いとかなきゃ。

異国を旅するにあたって、とっても重要な事。
   ① その国の言葉での挨拶
   ② 笑顔

で、CALIDに聞いてみた。

「アラビア語でありがとうってなんて言うの?」
      
     「シュクラン」

(シュクランね、これはショコラみたいで覚えやすいな。)
    

「じゃあ、こんにちはは?」
      「アッサラムーアライクム」
「へっ?」
      「アッサラムーアライクム!」

「アッサ、アッサ・・・。無理!」

モロッコは、フランス語も公用語なので、「ボンジュール」でもまあいいか。

迎えに来てくれたジーンも、車の中で、アラビア語を色々教えてくれたけど、
その初めて聞く言葉は、アラジンの魔法のランプの呪文のようで、
まるで覚えられなかった。

あとは、②の笑顔で乗り切るしかないね。

そして、着いたCALIDの家。
初めて見る、アラビア式の家にドキドキだ!
家族は、息子が連れて来た変な日本人を受け入れてくれるのかな?
  


この路地の先に・・その23

2010年06月08日

二等車には、私たち以外に旅行者は見当たらないようだった。
おのずと、みんなの関心は、変な東洋人に集まる。

汽車の中で、鶏が鳴いているのには驚いたが、サンドイッチやピーナッツなど、
食料も恵んでもらったりして、楽しい文化交流ができた。

入れれば当然出すものもあるわけで、汽車の中のトイレのドアを開けのだが、
そこには、○○○の山もりという、今まで見たことのない光景が!
とてもとても、乙女が使用できるシロモノではなく、あわててドアを閉めた。

ん~、どうしたものか。

多分、長時間停車した駅で済ませたのだと思うが、(線路脇を利用した覚えはないので)
旅行日記にも書いてないし、どういう風に対処したのかは自分でも覚えていない。
人間嫌な思い出は忘れるようにできているらしい。

実は、アラブ式トイレの正確な使い方を未だに私は理解していない。
和式トイレの様に真中に穴が開いていて、両側に足を置く台がある。
壁には、水道の蛇口があって、たいてい短いホースが取り付けてあり、その下には
空き缶が置いてある。
水を流すためのレバーや鎖はなく、トイレットペーパーも見当たらない。
なんとなく想像はつくのだが・・・・。
その想像の正式使用方法はどうしても無理だったので、持参したトイレットペーパーを使わして頂いた。
それと、トイレはなるべく街にあるホテルの洋式トイレを借りるようにした。

(というわけで、モロッコへ旅行される方は、トイレットペーパーは持参してくださいね。)


旅行中、お世話になった民家で、
「トイレを貸して下さい。」と頼んだら
「今、壊れているから屋上でして。」と言われた。

えっ!お、お、屋上でって・・・。
この炎天下、小はすぐに乾いてしまうだろうけど、
大だったらどうすんの?

今日は、下のお話で失礼いたしました。

お詫びのの印として、うちの庭で、今満開の薔薇の映像をおまけとしてお付けいたしますので、
素敵な薔薇の香りをご想像くださいませ。








  


この路地の先に・・その22

2010年05月27日

船内に乗り込むと、早速モロッコミュージックが私たちを出迎えてくれた。
はじめて聞くその不思議な旋律は、これから先に、今まで出会ったことのない異文化が
私たちを待ち受けているであろうことを想像させるのに十分だった。

うれしい事に、もう前の船で行ってしまったと思っていたCALIDに再会。

「お~、お前らモロッコに行くのか!」
   (あなたが、絶対行けと言ったでしょ)

「なら、おれの家があるマラケシュに来いよ。」
   「うん、行く!」

マラケシュというエキゾチックな響き。でも、モロッコのどの辺にあるんだろう。


しばらして、うっすらとアフリカ大陸が見えてきた時は、何か胸にじ~んと迫るものがあった。


スペインを出て2時間後、ジブラルタル海峡を渡りアフリカの玄関口タンジェに到着した。
アフリカのほんの端っことはいえ、大陸に自分の足で立つことができ、感無量。



モロッコ、チュニジア、アルジェリアはマグレブ3国と呼ばれている。
マグレブというのは、「日の沈む国」という意味だ。
日本は古来より、「日の出ずる国」と呼ばれていることからすれば、
東の端から、西の端へやってきた事になる。

ベタではあるが「思えば遠くへ来たもんだ~。」フレーズが頭をよぎった。



この港街タンジェで、ヨーロッパからやってきたバックパッカーたちは、
否応なしにアフリカの洗礼を受けることになる。
それは、尋常ではないポーターや自称ガイドの執拗な客引きだ。
これに恐れをなし、そのままヨーロッパに逃げ帰る人もいるらしい。

私たちは、幸いにも、モロッコ人の友人を得ていたことから、何なくこれをクリアし駅へと向かった。
駅で、マラケシュ行き2等車のキップを購入し、いよいよモロッコでの私達の旅が始まった。


その時は、12時間にもなる長~い列車の旅になるとは知らず・・。

というわけで、前回の冒頭となったわけです。

  


今日よりモロッコ篇 この路地の先に・・その21

2010年05月21日






その日、私たちは、西アフリカはモロッコの空の下、夜行列車に揺られ、マラケシュの町へ向かっていた。
予定では、今頃、同じアフリカ大陸でも、スペイン領のセウタのホテルでゆっくり寝ているはずだったのに、なんでこんなことに・・。



せっかく、日本からはるばるやってきたのだから、
アフリカ大陸にも、自分の足跡を残したいと思い、簡単行けるスペイン領のセウタへ渡るため、
船乗り場へ向かってその朝早く、汽車に乗り込んだ。

その時、たまたま隣の席に座っていたのが、モロッコ人の男の子、CALID。
聞けば、今フランスの大学に留学中とか。イスラム教のお祭り、ラマダンで里帰りの途中なのだそうだ。
日本のお盆や、西洋のクリスマスと同様、イスラムの人々はその時期はお里に帰り、
家族で過ごすのが習慣なのだ。

彼曰く
「スペインなんてつまんないだろう。」
「なんてったって、モロッコは最高さ!!」
「なんで、モロッコに行かないんだよ。絶対行った方がいいって!!」
みたいな事を力説するもんだから、私たちも、だんだんその気になってきた。

そりゃあ、行ってみたいよ。でも、ガイドブックも持ってないしね~。


アルヘシラスの港で、彼と別れた後、日本人の岩崎くんと出会った。
彼は、アメリカ中を旅してきて、ニューヨークからヨーロッパに渡り、今からモロッコに向かうという。
それにしても、やっぱり男の子はうらやましい。
だって、世界中を旅しながら、荷物が小さなセカンドバッグひとつ!!
彼が、持っていたモロッコのガイドブックを見せてもらったら、なんとかなりそうじゃない?!という気になってきた。
(なんとかなるかァ~?)
でもって、気が弱いくせに、思いきりの良さが時々顔を出す変な性格で
「え~い!行ちゃえ~!!」とセウタではなく、モロッコ行きの船に乗り込んだのであった。

波乱万丈のスペインの旅ではあったが、それでも今までは計画にのっとり、行動していたのだ(これでも)
しかし、このあたりから、私達の旅は徐々にラビリエンスに迷い込むこととなっていった。

(フェリーの上で・・後ろにはうっすりとアフリカ大陸が見えてきた。)  
タグ :モロッコ


この路地の先に・・その20

2010年05月06日

旅のガイドブック「地球の歩き方」にこう書いてあったんだよね。

「もしあなたが、ここを訪れるとしたら、ぜひ日曜日を入れてほしい。
人口わずか3万人しかいないロンダで観る闘牛こそ、本当のスペインが、かいま見られるというものだ。」って。

で、わざわざ日曜日にやって来ました、ロンダ。
闘牛見るならここで!!って決めてたんです。

ところが、今日やってないんだってさ、闘牛。
なんか、街で今日はお祭りがあるらしくて、それで、闘牛はお休みらしい。

がっかり。せっかくスペインらしい白い壁のあるアンダルシアの闘牛場まで
やってきたのにね。




せっかくなんで、おのぼりさん観光客的記念撮影を一枚、パチリ。





あと、こうも書いてあったんだよね。
「この街は、期待以上の感動を与えてくれる。」って。

この街は、断崖絶壁の上あって、ヌエボ橋の下からの眺めが凄い。



この橋で、旧市街地と新市街地が分かれているのだが、旧市街地はけっこう見どころが多かった。
Casa del Marques de Salvaierraのインカの彫刻が印象的だったな。

帰る途中、犬にほえられて、遠まわりする羽目に。
なんかついてないぞ、今日はと思っていたら、
御土産屋さんのおじさんに声をかけられ、地図をもらっちゃった。

絵葉書もタダでくれたので、お礼に日本の絵葉書をあげたら、今度はロンダの本をくれた。(スペイン語読めないんだけど・・)

この町に、三木さんとカズコさんていう、日本人のお友達がいるんだって。
やさしいおじさんとの出会いで、いい気持ちで一日が終わりよかった・・。

ある意味、期待以上の感動があったかも。


そして次日、
なぜか私たちは、西アフリカ、モロッコの空の下にいたのだった。

まだ、本物のフラメンコも闘牛も見てないんだよな~。



ということで、スペイン編、いきなり終了しました。ご愛読ありがとうございました。
ムーチャス グラシアス!!
次回から、モロッコ篇です。お楽しみに~!!
アディオ~ス!!アミーゴ!!






  


番外編 続き

2010年04月02日

よく、お母さんの話をしてくれていたので、
「お母さんに会うのが楽しみ。」と言うと。
   「マムは、英語しゃべれないのよ。」と。

彼女は、イギリス生まれのイギリス育ちだが、ご両親はインドのご出身で、
お父様は、すでに亡くなり、今はお母さんと2人暮らしだ。

家庭での会話は、パンジャビ語(インド北部の言葉だったと思うが)なのだそうだ。
まあ、こちらも片言の英語なのだからちょうどいいではないか。

サリーを身にまとったお母さんは、やさしい笑顔で迎えてくださった。




(右から、お母さんと近所のお友達)

小さいながらも、よく手入れの行き届いた庭を眺めながら飲んだ、お母さんの入れて下さった紅茶はとてもおいしく感じた。
たとえそれが、ティーパックの紅茶でも(笑)






(ラベンダーがきれい)

別れの日、お母さんは微笑みながら、私たちにお金を差し出した。
もちろん固辞したのだが、どうしてもということだったので、結局ありがたく頂いてしまった。
社会人になって以来、おこずかいをもらう事なんてたぶん初めてだったので、
びっくりで、かつ、とってもうれしかった。




おととしのクリスマス、毎年届く彼女からのクリスマスカードが来ず、
気にはなっていたものの、忙しいのだろうと思っていた。
年が明けて届いたメールには、
「去年、母が亡くなったのでカード出せなかった。ごめんなさい。」とあった。
遺灰を持って、インドのお母さんの故郷へ行くとも書かれていた。
私にとって、たった数日を一緒に過ごしただけの人であったが、あのにじみ出るような優しさを忘れることはないだろう。

一人になった彼女の事が心配だったが、今、相変わらずあちこち旅行しているぐらいだから、
元気なんだろう。

ハガキの最後は、「会いたいな~。もうすぐ、日本に行くからね~!」と結ばれていた。
え~、ホントに!今から、彼女との再会がとても楽しみだ。
  
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番外編 この路地の先に・・・。

2010年04月01日




昨日、我が家に舞い降りた一枚の英文のはがき。
「ん~、この悪筆は、Hちゃんだな。」

彼女からの手紙、いつも宛名は私の苗字さえない。
UMEKO SAN (実際は本名は書いてありますけど)てな具合で、まさかSANが苗字と思っているって事はないと思うのだが。なんか、郵便屋さんに申しわけない気がする。

で、消印は?



マラケシュ!!
今度は、モロッコかァ~。




この間は、アルゼンチンからで、「タンゴを習っています。」なんて書いてあったし、その前はカナダからで、確かその前は、「インドに野生のトラを見にきています。」だった。

私より、ず~っと小柄な彼女のどこにそんなパワーがあるのか、いつも感心してしまう。

しかし、いつものことながら彼女の手紙は、解読するのに3回は読み直さなければならない。というか、3回で、解読できる私は偉いとさえ思う。

だって、これが 


The で
これが、


very という感じなんだもん。
内容も、天気の話しとかぐらいだし、前後の文脈と慣れで、いつもなんとか理解している。



イギリスから、この山里の町の中学校の英語教師としてやってきた彼女を、前任の先生が紹介してくれたのが、最初の出会いだった。もう7、8年前にもなるだろうか。

年老いた母が心配だからと、たった一年で帰国してしまったが、それまで楽しくお付き合いさせて頂いた。
気さくな彼女は、よく自宅に招待してくれたものだ。インターネットで輸入したという、ナンやベジタリアンの彼女が作ってくれたインド料理はとてもおいしかった。
ただ、ヨーグルトに刻んだキュウリを混ぜて、ご飯の上に乗せた物だけはどうもいただけなかったが。(どう考えても、それぞれ別々食べた方が、おいしいだろっ!)


帰国する時
「イギリスに遊びにきてね。」
「うん、行くよ。」という会話があったわけだが、社交辞令みたいなもので、
普通はこれでおしまい。それっきり、音信不通になるパターンさえある。

しかし、彼女は、それからも何度か国際電話をかけて来てくれ、その度に
「いつ来るの?」
「いつ来れるの?」と聞くものだから、
私も思わず「じゃあ、来年の春に行くよ。」と答えてしまった。


そんなこんなで、私は花々が美しく咲き誇る季節、ロンドンのヒースロー空港で彼女と感激の再会を果たしたのだった。

つづく・・・。
  
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この路地の先に・・その19

2010年03月11日

グラナダでスキーのまねごとを楽しんだ次の日は、メスキータを見るため
コルドバに向かった。


グラナダからバスで4時間半、結構都会だ。
なかなか良いホスタルが見つからなくて、やっとそれなりの宿を探し出した頃はもう夕暮れだった。

夕食後、燈火のキリスト広場へ。
8本のカンテラの火に囲まれた十字架の上のキリスト像を見つめていると心が落ち着いた。


(昼間の燈火のキリスト広場)

ロマンちっくなこの場所で、一組の恋人たちがデートを楽しんでいた。
向こうは絶対、「早く帰らんかい、この観光客」と思ってただろうな・・・。



朝、車の音で目覚めて窓を開けると、今日も抜けるような青空。
今日も暑くなりそうな気配を感じながら、メスキータへ。

メスキータは、もともとイスラム教のモスクだったが、その後、13世紀にキリスト教徒によって街が奪回されると、今度はキリスト教のカテドラルとして使われるようになった。
内部は、独特の赤と白のしましま模様のアーチがあり、ここで25000人のアラブ人がメッカの方向に向かいひれ伏していたのだ。









さて、私たちの旅も、もう半分が過ぎてしまった。
この辺で、一度家にも連絡を入れとかないとやばいかなと、公衆電話から国際電話をしてみた。

「はい、○○です。」と兄の声。

「あ~、私。」

一瞬の沈黙の後
「おまえな~、・・」
と、ここで電話は切れてしまった。

めいいっぱいコインを入れたつもりだったがこれだけしか話せなかった。
しかも、兄の声は確かに怒っていた。
私に対する父の怒りや愚痴を兄が一手に引き受けていることは想像に難くない。

まあ、私が生きているということはわかっただろうし、
よしとするかと自分に言い聞かせては見るのだが、帰国してからの事を考えると、
どういう事態になるのか、考えるのも怖い。

なるべく気にしないようにしてはいたが、これからまだまだ続く旅の中で、
ふと、あの「おまえな~。」の声が頭をよぎり、私を脅えさせるのだった。







  


この路地の先に・・その18

2010年01月28日

翌日は、朝9時グラナダ発のバスに乗り、ソリニエベスキー場へと向かった。

あのアルハンブラ宮殿の後ろにそびえていた、シエラ・ネバダ山脈の頂上付近にあるこのスキー場。
遠くから見ていた時は、雪で真っ白だったが、いざ着いてみると、けっこう岩が顔を出している。

けれども、素晴らしい青空と輝く雪。ソリエニエベ(太陽と雪)という名にふさわしい所だ。


せっかく来たんで、スキーに挑戦。
レンタルスキー屋のおじさんが、不安気だったが、笑顔で押し切る。

今まで私が行った事のある日本のスキー場とは違って、広大なゲレンデには見渡すところ木は一本のないし、なんたって人がいない。
リフトの待ち時間も、当然ゼロ。








ほとんど人影のないゲレンデと真っ青な空。気分は最高!
といっても、スキーの腕前は、ボーゲンに毛が生えた程度なんで、
猫に小判、豚に真珠で、
本物のスキーヤーの方々には申し訳ない気がした。


~馬見原商店街のすぐ近く、五ヶ瀬ハイランドスキー場にも、
ぜひ、遊びに来て下さいね!~
  


この路地の先に・・その17

2010年01月20日






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アルハンブラ宮殿から、帰って来てみると
ラッキーな事に、その日はグラナダの春祭り。
子供たちもみんな、フラメンコの衣装で着飾っている。

ちっちゃい子供たちはホントにかわいい。
あちらこちらで、みんな思い思いにフラメンコを踊っている。

スペインの人たちって、みんなフラメンコが踊れるのだろうか?
学校でダンスの授業とかあるのかな?

日本で言えば、夏祭りに浴衣を着て、盆踊りを踊るようなものか。


とにかく、毎年みんなこのお祭りをとっても楽しみしてるんだろうな。



今では日本でもよく見かける棒状のなが~いドーナツ、チューロの屋台があった。
ドラム缶みたいな中に油が入っていて、搾り器から生地がにゅ~と出てチューロができて行くのを、適当な大きさにカットして出来上がり。

面白くて、眺めていたら、中学生ぐらいの男の子が、自分のチューロを少し分けてくれた。
お祭りで男性がみんなかぶっている、黒い帽子を私の頭に乗せてくれたり、とってもやさしい男の子だった。

高校生の女の子ぐらいになると、もう大人っていう感じでとっても色っぽい。
一度、あのフラメンコのドレスきてみたい。